目の前に出された白いペラペラの用紙。
真っ先に飛び込んできた文字を、声に出してみた。
「・・・婚姻届」



春野サクラ、18歳の雨の日だった。





うちはさん
のサスケくん 1





西に振り返ったところで、サスケは一度だけ鼻を鳴らして視線で急ぐよう煽った。
「雨が降る」
まるで猫みたいだ、とサクラは思った。
無駄のない洗練された動き。しなやかな筋肉のしなり。
艶のある黒髪の彼は、黒猫を髣髴とさせる。
そんな彼が、予言のように一言漏らす。
第七班にかせられた任務―――要人を波の国へ送り届ける―――その帰り道だった。



*



パラパラパラパラ。
柔らかな新緑に冷たい雨が突き刺さる。
浅い水溜りに小さな波紋が広がっていく。
サクラが任務報告直後、火影室に呼ばれて提示された白い用紙。
“彼”らしく几帳面な字で「うちはサスケ」の名のみが書かれ、相手方の名が無記名の婚姻届だった。
“これ”が何を示唆しているのか。
悲壮に眉を顰めたサクラに、綱手は視線を逸らした。
排他的な思考を未だ纏うサスケに、サクラは心を痛める。
サスケの里抜けの際、幸せにするからと言った自分の言葉は、やはり捕えられていなかったことを再認識して項垂れる。
「サスケの了承は、得ている」
何の、というサクラの問いは声にはならなかった。
見知らぬ人間との婚姻を。
うちは一族の復興をと言った、スリーマンセル初日のサスケの言葉を思い返す。
サスケの中で最優先事項であった願望は叶った。
“ある男を殺すこと”―――12歳の少年が放った言葉は、全うされた。
だからと言って、こんな手段で。
こんな自虐的な方法で、第三者に押し上げられるような手管で。
つい先ほどまで、スリーマンセルを組んで任務を遂行していた彼が。
いつの間にこんなことになっていたのか。





(―――――サスケくん)




*




サスケの助言により意思は固まった。
寄り道せずに真っ直ぐアカデミーへ報告しに行こうと。
すでに木の葉の領域には達していた。
少し急げば、濡れることなくアカデミーへ直行できるだろう。
それだというのに。
ナルトはふと立ち止まって右手だけでチャクラを練ろうとする。
何をしようとしているのか。
「何してるの、ナルト? 急ぐわよ」
仕方ないように言うと、ナルトは下唇を突き出して見せた。
「なんでサスケは雨が降るって分かるんだってばよ」
火遁の使い手の彼だからこその、察知であろう。
風遁の彼はそれだけでは納得できなかったようだ。
水遁の彼女はチャクラの漲る感覚になるほどと納得した―――サクラの場合、サスケの言うことが全てになってしまうのだが。
サスケは答えず、その代わりに眉間に皺を寄せて鼻息を吐いた。
その様子にナルトは気を立てる。
相手にされないことを分かっているのに騒ぎ立てる。
なんて成長のない。
13歳の頃のままではないか。
「いい加減にしなさいよ」
サクラが作り上げた右の拳にチャクラを集中させると、ナルトは押し黙った。
どうしてオレだけ、と唸る。
まだ何か言うつもりなのかとサクラが睨みこむと同時に、拳に集中したチャクラは青白く迸った。
ナルトは諦めたように頬を膨らませてくるりと背を向けた。
そして「雨が降んだろ?」とあたかもリーダーのように里へ向かって足を向ける。
多少の潔さというか、引き際を心得たところが、僅かなる成長点であろうか。
いつまで経っても落ち着きがない。
火影を目指すならば、少しばかり状況判断と空気を読む努力をすることを常日頃から言い続けている。
思わず苦笑を零したサクラに気付いて、ナルトは一瞬覗き込むように見つめ、サクラが笑ったことを確認して嬉しそうに頬を緩める。
13歳の頃から変わらない。
無垢なナルトのサクラへ対する想いも変わらない。
そして、サクラもまた。
思わずまどろむような温かさにサクラも頬が緩んでしまう。
サスケは器用に片眉を顰めた。
サクラに懐くナルトの仕草に舌打ちを噛み殺す。
「行くぞ、ウスラトンカチ」
いつまでも油を売って前に進もうとしないナルトに、サスケが無慈悲にも背中を向けた。
ナルトが情けない声を上げる。
本当に。
13歳の頃から変わらない。
(―――ああ、なんて)
変わらないことだろう、とサクラは懐かしむ。
ただ、あの頃とは違って日々の任務は死が纏わりついた。
それでも。
それだというのに、誰も、この三人の信頼や思想や本質は変わることなく。
むしろ大地に根付いて絡め取る。
間違いなく、あの時のままではなかった。





各々、違う道を辿って今に到る。
別離をしてきた。
別離を繰り返してきた。
それだというのに、初めてスリーマンセルを組んだ時と変わらぬポジションで今現在に到る。
サスケが木の葉の里に復帰して二年が経った。
一年間の監視と拘置の後、ナルトとサクラとのスリーマンセルに組み込まれ任務に就くようになった。
一部の上層部からの“タカの目”も付いていた。
ナルトとサクラと同じチームに組み込まれたのも、“万が一”に備えてのことだろう。
もう、万が一のことが起きることがないことは分かっていた。
ナルトも理解していることだし、サクラも分かりきっていることだった。





喚くナルトをそのままに、踵を返したサスケにサクラは翡翠の瞳を見開いた。
見間違いかもしれないが、伸びた黒い前髪のその下で。彼が。
もしかしたら、笑ったのかもしれない。
表情は変わらなかった。
いつもの昏い瞳のままだった。
だが。
それでも。
サクラはサスケの眉間が僅かに緩んだことを見逃さなかった。
あの、アカデミーで見たときのサスケの表情を思い返す。
未だにサクラの心を捉えて放さない。
あのサスケの横顔が、忘れられない。




*




サクラは躊躇うことなく、氏名欄に名を書いた。
むっつりと不貞腐れ頬を膨らませたサクラに、綱手は苦笑と供に嘆息を吐いた。
「・・・いいのかい?」
「“わたしが”幸せにするんです!」
言い切ったサクラに、綱手は噴出した。
憮然と鼻息を吐いたサクラを一頻り笑い、目を伏せる。
「・・・あたしは、反対なんだよ」
綱手が言う。
何を差すでもなく、この婚姻を言っているのだ。
「アンタはチャクラはないが、忍力がある。子どもの満体は十月十日胎で育てる母体こそが何よりの糧となる。―――風影の餓鬼の二の舞にだって成り得る」
里の犠牲になった我愛羅の母の話ならば聞いたことがあった。
「サクラ。アンタが、うちはの餓鬼でも九尾の小僧でも身ごもった場合、その子が良い方向になることはない。子を孕むのは、諦めな」
何を、と思った。
それでは何のための強制的な婚約なのか。
矛盾しているではないか。
綱手はサクラを見据えて言葉を選んでいるようだった。
そんなことは関係あるか。
大蛇丸の件も。
暁の件も、忘れたわけじゃない。
弱い自分を自覚して、強くなることを望んだ。 “彼等”だって、そうだった。



「新しい力が、火種になる」



「知ってます」
綱手の言葉にサクラが笑う。
「だから、余計に厭なんだ」
心底厭そうに、その美しい柳眉を寄せる。その表情に、サクラは笑う。
彼の人に似ていると思っただなんて言ったら、どうなるのだろうと思ったのだ。
「でも、火影様」
愛らしく首を傾げる姿は、初めて会った十二の頃と何ら変わりない。
「世界を変えるなら、土から変えなければならいんですよ」
まるで、言い聞かせるように。
木から林檎が落ちることを説するように。
この世界を生きていくために。




*




「うちは」の血を絶やさないため―――――“限界継承”を絶やさないため、という方が正しいのだろう。
木の葉の里、ご意見番率いる上層部の決定事項であった。
その「うちは」に入るならばと、幾人かの優秀と呼ばれるくの一の名が挙げられた。
その中に、五代目火影の側近になりえる「春野サクラ」の名も挙げられたのだった。
幼少の頃からの明らかなる片恋をひきずっていたサクラにとって、その候補に名を挙げられたのは喜ばしいことだっただろう。
だが。
彼にとっては火影から提示された彼女の名に、漆黒の瞳をまっすぐに一つ、肯いただけの。
ただ、それだけでの婚姻だった。
サクラにも。
―――――サスケにも。
拒否権というものを用意されることなく、用意されたのは、ただ一枚の白い紙だけだった。
こうして、うちはサスケと春野サクラの婚約は成立した。




*




いつの間にか雨は本降りになっていた。
雨は好きじゃない。
サクラは目を伏せる。
ナルトが里抜けしたサスケに振り切られ、傷つきカカシに背負われ木の葉に帰ってきたあの日がリフレインする。
もう、そんなことはないことは知っていながらも。それでも。
遠い雷鳴を耳にして、サクラは思う。
(まるで、血の契約のようだわ)
署名しただけの白い紙を、シズネが由々しく持ち去る。
特に感動や、感慨などはなかった。
ただ、サクラは、読んだことのある物語を思い返す。
(何かを引き換えに、己の血を差し出すことで手に入れる)
ならば、と。
(サスケくんの一族の復興は)
こんなにも強制的に性急ある形であっても、欲していたものだったのだろうか。
未だに闇を拭いきれていない表情を見せるサスケを想って、サクラは俯く。
(でも、わたしじゃなくてもサスケくんは)
そう思って、悔しさに唇を噛む。
この時点で、サクラが欲しているものは手に入れられなかったということが判明している。
(サスケくんに、選ばれる“女性”になれなかったんだ、わたしは―――)
しかし、サスケが心から一族の復興を願うならば、想う人を手元に置いたはずだと、関心すら得られていない自身の無力さが不甲斐ない。
何より。
この白い紙一枚が及ぼした影響は。
(お互いさま、ね)









―――――何が手に入るというのだろう?






ブラウザバックプリーズ



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